高山彦九郎先生とは

高山彦九郎と久留米

 尊王と孝節ひとすじの旅の生涯を送り、世に奇人と称され、あるいは徳川幕府に抑圧されながら、ついに後年、明治の王政復古事業の思想的礎となった高山彦九郎は、延享4年(1747)5月8日、上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)に、彦八正教の次男に生まれ、名を正之、仲繩と号した。
 家は名主を勤めた豪農で、祖先の高山遠江守は平氏より出、南北朝時代には新田義貞の「新田十六騎」の一人として高名をはせた。彦九郎を愛し、その教育にあたったのは祖母といわれ、幼少から「太平記」を読ませ、「尊王」こそ先祖への「孝」ときびしく諭したという。このような環境に育ったことが、彦九郎の思想と行動を方向づけた大きな要因である。
 18歳の時、志を立てて郷里を出で、京都三条大橋上で皇居を拝し、「草莽の臣高山彦九郎」と名乗って号泣し、中川規斎に認められて2年間京都に滞留、この間皆川淇圃ら多くの学者に学んだ。帰国後六年間家業に従ったのち、皇権復活と復古神道宣揚を求めて関東、東海、北越の旅に出、途中に祖母死去のため3年の喪に服した。

 喪明けと共に、水戸、仙台、松前を回り、北陸路から京都に入った。鴨川で得た緑毛の霊亀(祥瑞の兆)を天覧に供し「我を我としろしめすかやすめらぎの、天の御声のかかるうれしさ」と詠じたのはこの時である。  寛政3年夏、初めて京から中国、九州路の旅に出た。備後で菅茶山、広島で阪井虎山を訪ね、小倉を経て中津に大神維成を訪れ、転じて筑前遠賀郡の波多野康成に会った。  その後久留米に入り、新町一丁目の万屋金兵衛方に宿泊、江戸で知り合ったという東櫛原村の森嘉膳を訪ねた。この時、彦九郎は親友の唐崎常陸介(広島県竹原の神官)の紹介で家老の有馬主膳守居に面会を求めたが、病臥中のため面会できなかった。守居は常陸介から山崎闇斎流の垂加神道の伝授をうけていたのである。
 久留米滞在数日後、彦九郎は長崎から熊本に入り、同藩の薮孤山らと交遊して3ヵ月滞在、越年した。翌年2月、熊本を発して薩摩に入り、6月から日向、豊後路を巡り、日田に広瀬家を訪問した後、川を下って久留米宮ノ陣に着いた。三本松町の袋屋三郎兵衛方に泊り、森嘉膳を再度訪れた。この時、常陸介を交えて有馬主膳とその別荘「即似庵」で会談し、藩校修道館の教官らとも交わった。同校教官樺島石梁とは、寛政元年江戸藩邸で相知り、「贈高山仲繩序」の文がある。  久留米を去った彦九郎は、筑前を通り、翌5年初、再び豊前、豊後、筑後路を遊歴し、6月19日頃飄然として森嘉膳宅を訪れた。心身共に疲れ、逆上気味で旅行記や人から送られた詩歌類をあわてて破り捨てる風があった。そうして、ついに同月27日、家人の目をぬすんで屠腹。そばにきた嘉膳に「余が日頃、忠と思い、義と思いし事、皆不忠不義の事となれり、今にして吾が智の足らざるを知る。天、吾をせめて斯の如く狂わせしむ。天下の人に宜しく告げよ」と述べ、懐中から取り出した一紙に次の辞世があった。

 朽ちはてて身は土となり墓なくも
        心は国を守らんものを

 まさに息絶えんとする時、京都と故郷に向って席を改め、柏手を打ち、心念じ終り、端坐して従容として死についた。嘉膳らの手で高山家の宗旨により真言宗の遍照院に葬られた。  彦九郎憤死50年後、幕末期の若い志士たちはその行動に感銘し、相ついで墓前に香華を手向けた。地元久留米の真木和泉守もまた、

  新らしと人は言わねども春はただ
      古き神世に立ちかへるらむ

と哀悼の歌を捧げて拝んだ。そして、遍照院墓域は新しい尊王家の聖地ともなったのである。

高山彦九郎事蹟年表

延享4年(1747) 5月8日上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)の富農家に生誕。
宝暦9年(1759) 13才の時、祖母に指導をうけて「太平記」を読み、
尊王の志を立てる。
明和元年(1764) 18才で郷里を出、京都三条大橋から皇居を遙拝し感激する。
明和8年(1771) 隣国遊歴、次いで諸国への旅に出、「忠孝節義」の人を巡訪。
安永9年(1780) 6月富士登山。翌年江戸に出て著名な学者たちと交わる。
天明6年(1786) 祖母死没。その墓側に小屋を建て、3年間喪に服する。
寛政2年(1790) 水戸に遊学、藤田幽谷ら水戸学者と交わる。
のち仙台に林子平を訪う。
寛政3年(1791) 在京の志士と国事を語る。幕府は儒学者に高山の行動を探らしめる。7月、中国、九州遊歴。小倉より豊前、筑前を回り、久留米東櫛原村に森嘉膳を訪ね、八女の高山畏斎の継志堂に行く。ついで、肥後に3月余滞在。
寛政4年(1792) 2月熊本から鹿児島に入り、100日余滞留。6月から日向、豊後、筑後、筑前を回り、再び森家を訪問。この頃、家老有馬守居および著名在米藩学者たちと交わる。
寛政5年(1793) 正月から再び豊前、豊後、筑後を歴訪。6月森家を訪問。同月27日屠腹。47才。同年10月、寺町光明山遍照院に葬る。諡号「松陰以白居士」。
寛政6年(1794) 4月26日、叔父、武州旛羅郡臺村の剣持長蔵が来久法会する。
享和3年(1803) 6月、遺子高山義介が墓参に来久。樺島石梁宅投宿。
天保13年(1842) 真木和泉守、木村重任等相語り、50年祭を厳修する。
安政5年(1858) 10月、筑前の尊王家、平野国臣、石燈1対を寄進する。
明治2年(1869) 藩主有馬頼咸、旗崎茶臼山に招魂所を建立、高山の神徳を祀り、併わせて王事に斃れた藩士の霊を祀る。
明治6年(1873) 8月、三潴県参事、水原久雄の提唱で茶臼山に「御楯神社」建立。
明治8年(1875) 同神社前に「高山仲繩祠堂記」碑建立。
明治11年(1878) 正四位を贈らる。
明治12年(1879 群馬県新田郡太田村に「高山神社」建立される。
明治25年(1892) 筑後、全国の同志相集い、御楯神社で追悼100年祭執行。
明治42年(1909) 5月、久留米の有志により高山先生慰霊会組織される。
明治44年(1911) 当時の三井郡教育会有志者の賛助により森嘉膳宅跡に「高山彦九郎先生終焉の地」の碑を建立した。
明治44年(1911) 11月、陸軍特別大演習の際、山県、大山、伊東、奥、井上の5元帥と寺内陸軍大将等が参拝、墓の傍に記念の赤松を手栽した。
大正6年(1917) 朝香宮、同10年に久邇宮、更に同14年高野山管長泉智等大僧正が相次いで参拝、それぞれ記念の植樹をする。
昭和3年(1928) 彦九郎が皇居を拝した京都三条橋畔に銅像が建設された。
昭和17年(1942) 命日の6月27日、神佛両式で150年祭を厳修。各種追悼行事開催。
昭和27年(1952) 墓前祭とともに、追悼剣道大会を復活。
昭和35年(1960) 月星化成より遍照院庭園が造成寄贈され、財団法人高山彦九郎先生史蹟顕彰会が発足。墓域、庭園を管理することになった。
平成4年(1992) 200回忌記念事業、「高山彦九郎とその時代展」他を実施した。
平成9年(1997) 生誕250年記念事業として講演会「旅をする高山彦九郎と久留米」他を実施した。