17ヵ寺が甍をならべて、ひねもす香の絶えることのない寺町に歩をはこび、左側の一番奥の光明山遍照院(真言宗)に、高山彦九郎の墓がある。このわきに四季のみどり豊かなたたずまいを身近かに感じさせている純日本式の庭園がある。昭和35年に月星ゴム株式会社(現株式会社ムーンスター)より寄贈された。総面積4300平方メートル(約1300坪)。
この庭園は、当時奈良国立文化財研究所の工学博士・森薀の設計によるもので、王朝風のたたずまいを入れ、萩坪、山吹坪、稚松坪が展け、石組みに前栽をあしらった枯山水であり、一石一岩の姿を藤原時代の作庭記の内容や、鳥獣戯画に描かれている動物の遊び戯れている様になぞらえ、中島を配した心字の池にかかる石橋は、高山彦九郎にゆかりのある京都三条の橋を模している。
この池に注ぐ鑓水あたりの築山、背後の杜などにも北山杉(きたやますぎ)を移植しているほか、京都より移築した茶室への延壇のしずかな感じに加えて、茶室の犬走りの玉砂利敷きも、鞍馬山より貴船の赤石を並べている。
この茶室の名は高山彦九郎の法名「松陰以白居士」に因み「以白庵」と呼んでいる。茶室は一般にも開放利用されている。
(庭園前の広場は、マイクロバス以下なら駐車OK・遍照院/TEL:0942-32-879)
西道俊の墓
彦九郎の墓のすぐ裏側にある、酒樽型の台石にひさご形をした銘もない墓が西道俊の墓である。
道俊は、天草の人肥前長崎の儒医で、京都で彦九郎と意気投合、肥後、天草等を共に遊説した仲で彦九郎が久留米に留っているのを知り遙々たずねて来たが、彼の死を知り享和2年(1802)5月2日、彦九郎の墓前で割腹し世を去った。73才。
耿介四士の墓
長州藩の著名な奇兵隊幹部であった大楽源太郎、その弟の山県源吾、従者の小野精太郎・村上要蔵の墓である。耿介とは、志堅く、世俗に迎合しない風をいう。
維新後、長州藩や明治政府の中央集権策に反抗し藩の追求に遭った大楽らは、九州各地に逃れ、最後に反政府尊攘派の拠点であった久留米に身を寄せた。政府は大楽らの引き渡しを要求し、反政府党一掃のため四条隆謌少将の率いる軍隊を派遣した。事態に窮した米藩同志らは、やむなく大楽らを筑後川辺りで暗殺、時に明治4年3月16日である。
墓地は明治26年、元同志の松村雄之進らが有馬氏からの七百円の賜金で建立。墓銘は五卿の一人、東久世通禧の書。傍に右事件関係者らの墓碑「辛未遭難志士の墓」がある。
(西鉄久留米駅から徒歩15分)