芸術の街 久留米

若くして世を去った天才画家 久留米で過ごした日々とは

往時を知る人々の情熱に守られて

久留米のシンボルとして、そのど真ん中にでんと構える石橋文化センター。
[株式会社ブリヂストン]創業者の石橋正二郎(1889~1976)が寄贈した施設だ。
彼は絵画収集家としても有名だが、それは28歳で夭折した洋画家・青木繁(1882~1911)に始まったという。
青木が画家を夢見て過ごした実家は、荘島町にひっそりと佇む。お座敷とお茶の間、2階にひと部屋あるくらいのこざっぱりした家だ。
だけど、品良く清潔に保たれていて心地よい。

青木繁旧居の画像

縁側から眺める小さな庭は、雨に濡れた緑が映えて本当にきれいだった。
これらは近くに住む保存会の皆さんの努力の賜物らしい。

奥にあの有名な≪海の幸≫のレリーフを設えた庭

青木は17歳で上京。25歳の時に父危篤の知らせを受けて実家に戻ってくるが、家族と衝突し家を出てしまう。
母は実家に戻り、一人になった青木は九州を放浪し、そのまま28歳で亡くなる。
それから数世代を経て、老朽化のために取り壊されることになった時、その昔を記憶する近所の人々が憂い、「青木繁旧居保存会」が発足。
廊下や手水鉢などはそのままに復元整備され、2003年、[青木繁旧居]が開館した。
 

お座敷を囲む広縁は日当たりよし

…と教えてくれたのは、にこやかに迎えてくれた管理人さん。
丁寧な説明に情熱を感じて聞き入っていたが保存会会長の娘さんと聞いて納得。 「ここにあるような実物と同じサイズのレプリカは、なかなか作らせてもらえないんですよ」 床の間にある絶筆《朝日》は、実物が保管される小城高等学校同窓会に半年間通って製作が許されたそう。

青木繁に関するパネルの他、いくつもの複製画を展示する

他にもそこかしこに飾られた作品を観て、日本神話をモチーフにしたロマン主義の画風が、すごく自分の好みであることに気付く。
そして、「本物じゃないんだ~」なんてレプリカと言えども侮れないことを知るのだった。
著名な画家を多く輩出した久留米。アートを巡るさんぽは、まだまだ始まったばかり。 

青木繁旧居

所在地
久留米市荘島町431
電話番号
0942-39-3575
休み
月曜※祝日の場合は翌日、12/28~1/3は休み
駐車場
あり

武家屋敷としても価値の高い 坂本繁二郎の生家

偉大なる洋画家を育んだ、侍屋敷地を行く

先月、旧居を訪ねた青木繁と並んで近代日本の洋画家として名高い坂本繁二郎(1882~1969)。
久留米から同時期に2人の優れた洋画家を輩出したことは偶然ではないだろう。
同級生だった2人が刺激を受け合い腕を磨き合った結果、共に高い評価を受けることになったわけだ。

が、青木が下級武士の子であるのに対し、坂本は御馬廻組などを務めた中級武士のお家柄。京隈小路と呼ばれた侍屋敷地にある坂本の家は大きい。
居間に茶の間、座敷といくつも部屋が連なって、歩き回るとどこにいるのかわからなくなる。大きな庭もあり裕福な暮らしが想像される。茶室には青木が約3ヶ月間居候したこともあるらしく、2人が落書きしたという襖絵(複製)がユニーク。

ボランティアガイドのおばちゃんが、「聞きたいことない? 大丈夫?」ととっても親切なので、井戸にある「はねつるべ」について聞く。
屋根の高さほどにある天秤は一方に大きな石がのっかっている。もう一方に取り付けられた竹の細木を握ってみると、簡単に上下に動かすことができた。なるほど、これなら楽に水を汲むことができる。

あまりに大きな「はねつるべ」。気付かず一度通り過ぎる

坂本は、高い画技を身に付けて東京から戻った青木に触発され、20歳で上京。27歳で生家を手離している。
すぐ側の日輪寺は坂本少年がよく遊んでいた場所らしい。ここに5~6世紀に作られた前方後円墳がある。侍屋敷地に古墳があるなんてちぐはぐな感じもするけれど、この辺りはそれだけ昔から有力者にとって重要な土地だったのだろう。

今はコンクリート造りの建物が、日輪寺古墳の石室を覆う
坂本少年が遊んだ日輪寺は小高い丘に

寺の人によると、誰の墓なのかはわかっておらず、現在も調査中。全長約50mってかなりの大きさだ。
残存するのはごく一部。板石を積み上げた石室の小さな空間がぽっかり。石室の内部を仕切る石障には文様がくっきり。
これってそんなに古いのかと、膨大な時の流れを想像できずボー然。坂本少年は何を思ったのだろう。 

坂本繁二郎の生家

所在地
久留米市京町224-1
電話番号
0942-35-8260
休み
月曜※祝日の場合は翌日、12/28~1/3は休み
駐車場
有り
※2020年3月11日時点の情報です。