青木繁は、明治15年(1882)、青木家の長男として久留米市荘島町に生まれま
した。江戸時代の荘島町は久留米藩の下級武士が住んでいたところで、縦横に入り組ん
だ路地が今も残っています。
青木が17歳で上京するまで住んでいた荘島町の家は、「青木繁旧
居」として公開され、多くの人々が足を運んでいます。その旧居は市民の皆さんの支援
で全面的に復元整備されましたが、床の間の床柱・床板やお縁の板などは以前から使われていたものが再利用
されました。
青木は侍の子として厳しいしつけをうけたことを、こう書いています。
『どんなに寒い時も朝まだ暗いうちに縁側の板敷に机を持出して読書させられる。そ
れも大きな声を張り出さねばならなかった。立居振舞いの一々に厳しいきまりがあった
から、幼心にも成人のような負けじ魂が固く養われていた』
久留米中学明善校に入学した頃の青木は、
『色の白い、おとなしい、どこか超然としたところのある少年』だったと言われています。文芸や美術に対する熱情が高まったのはこ
の頃で、14歳になった青木は、久留米でただ一人だった洋画家の森三美に絵の手ほど
きを受けました。
それまでの彼は日本画しか知りませんでしたので、水彩画や油絵の印刷物を目にして胸を躍らせます。青木の中学の同級生はその頃の彼についてこう書いて
います。
『屏風山(耳納連山)、さては高良山南麓にある温石谷等に写生に行って出来たものは早
速学校に持って来て見せていた。あまり文芸を偏愛して作画に熱中したので、父はやめ
るよう命じたが君は聞かなかった』
実は、青木は父の眼を盗んで洋画の稽古に行っていたのです。
そうして、『われは丹青
(絵画)によって男子たらん』と画家になることを心に決めました。
そこで、青木は父に告げます。
『これから美術学校に入って、将来美術家になろうかと思っています』
父はこう答えました。
『美術とは何だ、武術の間違いじゃないか』
そう言って反対した父も息子の固い意志にやむなく動かされ、上京が決まりました。
こうして青木は明治32年(1899)の2月、中学明善校を退学します。
その年の5月、青木は荘島町の家を出て1人で東京に向かいました。17歳のときです。
山陽本線の鉄道がまだ徳山より西に伸びていなかった当時、九州からの、それも筑後地方から
の旅立ちは相当の決意が必要でした。
しかも、青木には東京にこれという知人もいなけ
れば、学資も十分ではなかったのです。それでも、彼の心には『画のアレクサンダー大王になりたい』
との志がありました。
ふるさとの家を離れて4年後、東京美術学校に在学していた青木は、第8回白馬会展
に
『黄泉比良坂』などの作品を出して白馬賞を受賞しました。
念願だった画壇へのデビ
ューを果たしたのです。青木が21歳のときでした。
取材、執筆 オフィスケイ代表 田中 敬子
東京美術学校西洋画科に入り、神話を題材とした作品『黄泉 比良坂』などを白馬会第8回展に出品し白馬賞を受け注目を 集める。『海の幸』(重要文化財)を描き、白馬会第9回展に出 品し好評を得る。『わだつみのいろこの宮』(重要文化財)を制 作し東京府勧業博覧会に出品するが三等賞末席におわる。 父危篤の知らせで久留米に戻るが、間もなく家族と衝突して 放浪生活に入り、28歳と9か月の若さで病没した。 (『よかとこ久留米ものしり事典』より抜粋編集)
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青木繁旧居
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旧居室内
- /主な参考文献/
- 『河北倫明美術論集第3巻 青木繁と坂本繁二郎』河北倫明著
- 『青木繁と近代日本のロマンティシズム』日本経済新聞社発行
- 『私論 青木繁と坂本 繁二郎』松本清張著他
- 住所久留米市荘島町431番地
- TEL・FAX0942-39-3575
- 開館時間10:00~17:00
- 休館日月曜日/月曜日が祝日あるいは振替休日の場合は開館し、
その翌日に休館 年末年始/12月28日~1月3日 - 入園料無料
- 管理青木繁旧居保存会
- リンク青木繁旧居
- 交通アクセス西鉄バス「荘島」バス停より徒歩7分、「本町」バス停より8分
JR久留米駅からは西鉄久留米駅方面行き
西鉄久留米駅からはJR久留米駅方面行き
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