梅香る2月、城島町と三潴町では「城島酒蔵びらき」が催されます。会場では新酒を味わえるとあって、毎年、辛党や家族連れでとても賑わいます。昔から城島町と三潴町は多くの造り酒屋が軒を連ね、「東の灘、西の城島」と称えられてきました。
現在、久留米市は15軒の造り酒屋を数え、城島地域は京都市、神戸市と並び、「日本の三大酒どころ」と呼ばれています。久留米市の酒造りは江戸中期に始まりました。延享2年(1745)、城島に酒を造る専業者が現れたのです。当時の酒類は濁酒で、酒造業を始めるには久留米藩の許可が必要でした。そんな中、城島・三潴の辺りは、アオ取水した筑後川の良質の水や筑後平野で収穫される米に恵まれ、舟運を利用できることなど酒造りの条件が揃っていたのです。
明治時代に入った頃、城島・三潴の辺りには9軒の酒蔵がありました。すでに筑後川を利用して、舟の便で酒が長崎、熊本などに出荷されていたといいます。そして明治14年(1881)、酒造家の3名が自分たちの造った酒を携えて船出しました。販路を東京に求めたのです。ところが、そこにはすでに全国に販路を広げ、人々に愛好されていた灘の酒がありました。それは城島の酒とは酒質の違いが明らかな上に、口に含んだだけで判る香りもあったといいます。3人は灘の醸造地も訪れて、こう思いました。
「もっとおいしい酒を造らなければ、我々が生き残る道はない。それには改良しかないだろう。灘の酒に負けるものか。追い越すのだ」
酒造家たちは、すでに団結の必要を感じて酒造組合を組織していました。彼らは醸造方法を研究して機械の改良などをしましたが、うまくいきません。そこで、明治19年(1886)、灘より杜氏、酛廻り(モトマワリ)、麹付けが招かれました。酒造りの先進地だった灘の技術者を使い、新しい醸造法を試みたのです。ところが、仕込み中のお酒が腐ってしまう「腐造」が続きます。思うような結果が得られず、周囲から計画の中止という声が出ました。それでも酒造家たちは引き下がりませんでした。
「結果は良くなかったが、灘の杜氏から熱心さと不屈の精神を大いに学んだ。これからは、城島の酒は自分達の手で造るしかない」
失敗の原因は、仕込み水の水質の違いでした。水には硬度というものがあり、灘で使われていた「宮水」は硬水で、「筑後川の水」は軟水でした。水質の全く異なる筑後川の軟水には、灘流ではなく違った手法が必要だったのです。そこで、酒造家たちは地元に「三潴杜氏」を養成し、手探りで酒造りに取り組みました。灘の杜氏に学んだ作業手順を参考にして、その頃普及し始めた温度計を使い、酒造りの経過を記録しながら水質を研究していったのです。
酒造りのコツがつかめたのは、明治23年(1890)頃のことでした。こうして、灘の硬水を使った押しの強い酒に対して、筑後川の軟水仕込みの「すっきりとしたやさしい酒」が生まれました。この後、城島の酒は全国の品評会で次々と受賞し、大きな注目を浴びました。
銘酒、城島にあり。現在も、研究熱心で進取の気性に富む酒造家たちの心と技が銘酒を造っています。
・アオ取水=有明海の潮の満ち引きを利用して、筑後川から淡水(アオ)を取り入れる方法。
取材、執筆 オフィスケイ代表 田中 敬子
「城島の酒」の9つの酒蔵が協賛し実施される九州最大の早春酒蔵びらきは、毎年2月に開催されており、当日はメイン会場での「城島の酒飲みくらべ」や「角打ち」のほか、ウオーキングやシャトルバスによる開放酒蔵めぐり等を楽しめる。
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せせらぎ公園
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酒蔵びらき
- /主な参考資料/
- 『城島町誌』『筑後城島 酒の四季』他
- ◇城島町民の森◇
- 住所久留米市城島町楢津764
- ◇せせらぎ公園◇
- 住所久留米市城島町城島305
- リンク 城島酒蔵びらき
・九州自動車道八女IC・広川IC車で約30分
・長崎自動車道東背振ICより車で約30分
・西鉄天神大牟田線「三潴駅」・JR鹿児島本線
「荒木駅」より無料シャトルバスの運行がある。