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久留米物語

久留米物語 句碑で辿る 漱石の道
 夏目漱石が兄と慕った菅虎雄 文豪が久留米に残した春の名句
『菜の花の遥かに黄なり筑後川』

久留米市には、「漱石の道」という名の自然歩道があります。漱石の道は、明治の頃、夏目漱石が久留米を訪れ、高良山に登り耳納連山を歩いて越えたことから名づけられました。この時の風景は、小説『草枕』で描かれた山越えの場面に活かされたといわれています。

漱石は第五高等学校(現・熊本大学)の教授を務めていた頃に、5度久留米を訪れました。彼に五高の職を紹介したのが、菅虎雄です。幕末の頃、久留米市城南町で生まれた菅は、一高(現・東京大学)独文学科を卒業したドイツ語学者で、五高、一高、三高(現・京都大学)の教授を務め、菅と漱石は五高と一高で同僚になりました。

江戸生まれの漱石と久留米生まれの菅は学生時代に出会い、3歳ほど年上の菅は漱石が兄とも慕う親友でした。『夏目君の書簡』(『漱石全集月報』)の中で、菅は五高の職を漱石に紹介したいきさつをこう書いています。

『私が熊本の高等学校に行っている際、当時松山中学へ行っていた夏目君からいろいろ不平を述べた書簡を貰った。中川校長が熊本高等学校に英語の教師がほしいがというような話をされたので、そんならと云って夏目君の話をし、明治29年の春熊本へ来るようになった。この時も家が定まるまで2、3ヶ月私の家に同居しておられた』

実は、松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)の職に漱石を世話したのも菅でした。後に、漱石は松山での教師体験をもとに名作『坊っちゃん』を誕生させます。

こうして菅は、借家探しや金銭的な援助など物心両面で漱石に友情の手を伸ばしました。後年、中国の南京へ行って教鞭をとっていた菅に漱石は手紙を送り、次のような言葉を書き添えています。

『君がいなくなって悪口を言い合う相手がいなくなり、とても退屈だよ。僕も行きたいよ』漱石にとって、菅は自分の内面をさらけだせる友だったのです。

明治30年(1897)の3月、漱石は久留米に帰っていた菅を訪ねました。その足で、高良山に登って高良大社に詣で、耳納連山を越えて山を下り草野町の発心の桜を見物しています。この時に10の俳句を詠んだことから、現在、漱石の道には句碑が建てられています。

友人正岡子規の影響もあって句作に熱中していた漱石は、山道からの眺めに足をとめました。眼下に広がる黄色い菜の花、青々とした筑後川の流れ。当時の筑紫平野では、菜種油の原料となる菜の花の栽培が盛んだったようです。

この頃30歳だった漱石は、教師生活に嫌気がさしていて、『自由な書を読み自由な事を言い、自由な事を書きたい』と子規に手紙を書き送っていました。そんな心を抱きながら、後に「文豪」と呼ばれる漱石は、久留米ののどかな風景をこう詠みました。

    『菜の花の遥かに黄なり筑後川』

兄と慕った菅のふるさとに残した、春の名句です。

取材、執筆 オフィスケイ代表 田中 敬子

菜の花の遥かに黄なり筑後川
菅 虎雄 元治1年(1864)~昭和18年(1943)

ドイツ語学者。旧久留米藩の藩医、菅京山の子。
東京大学で最初に医学を、次いでドイツ文学を学んだ。

  • 『濃かに弥生の雲の流れけり』(発心城跡西方)

    『濃かに弥生の雲の流れけり』(発心城跡西方)MAP④

  • 『筑後路や丸い山吹く春の風』(森林つつじ公園東方)

    『筑後路や丸い山吹く春の風』(森林つつじ公園東方)MAP③

/主な参考文献/
『夏目漱石と菅虎雄』原武哲著・『漱石全集』夏目金之助著・『俳人漱石』
坪内稔典著他
漱石の道 ご利用の案内
◇森林つつじ公園◇
住所久留米市御井町299-354
交通アクセス
・九州自動車道久留米ICより車で約20分
・JR鹿児島本線/西鉄天神大牟田線「久留米駅」より西鉄バス
(1,8)番利用「御井町」下車、徒歩約50分
リンク森林つつじ公園
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◇発心公園◇
住所久留米市草野町草野664-1(発心公園)
交通アクセス
・JR久大本線「草野駅」より、徒歩約15分
・JR鹿児島本線/西鉄天神大牟田線「久留米駅」より西鉄バス
(25)番利用「草野上町」下車、徒歩約10分
・久留米ICより車で約15分
リンク発心公園
»googleマップはこちら
アクセスマップ
「漱石の道」 句碑5基
「菜の花の遥かに黄なり筑後川」(森林つつじ公園)
「人に逢わず雨ふる山の花盛」(森林つつじ公園東方)
「筑後路や丸い山吹く春の風」(森林つつじ公園東方)
「濃かに弥生の雲の流れけり」(発心城跡西方)
「松をもて囲ひし谷の桜かな」(発心公園内)
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