坂本繁二郎の生家はJR久留米駅の西側、日輪寺のそばにあります。久留米市京町のこの一帯は、江戸時代、久留米藩の中級武士が住んでいたところで、坂本の生家は市内に残るただひとつの武家屋敷です。
坂本繁二郎は、明治15年(1882)、坂本家の次男として生まれました。彼が幼い頃に父は亡くなったので、あとには母の歌子と祖母、4歳上の兄が残されます。母は部屋を貸したり屋敷内の土地を切り売りしたり、さらに手内職もして家族の暮らしを支えました。厳しい暮らしの中でも母はひたすらやさしく、坂本は寺で遊んだり筑後川で魚取りをしたりしてのびのびと育ったといいます。
坂本は無口で人見知りをしましたが、負けん気は人一倍強い少年でした。そんな彼が暇さえあれば絵を描くような「絵の虫」になります。坂本はこう書いています。
『ある日は、自室のふすまに墨で絵を描き始めたのですが、動物や舟などを描いているうちに、手の届くところが絵でいっぱいになり、踏台を持ち出して、とうとう4枚のふすまを真黒にしてしまったこともありました』
生家には、坂本が描いたとされるふすま絵が残されています。
10歳の頃、坂本は森三美という洋画家の画塾に通い、「神童」と周囲から呼ばれるほど上達します。後には、久留米高等小学校で同級生だった青木繁も画塾に入りました。その青木が「絵を勉強する」と言って1人上京したとき、坂本の心は揺れ動きました。この頃、母はひたすら兄の成人を待って万事をきりつめて暮らしていたのです。細々とした生活の中で、好きな絵を描かせてくれる母に彼は無理を言えませんでした。ところが、その兄は病死します。母1人子1人となった坂本は、久留米高等小学校の代用教員を務めました。
それから2年余り、教師生活をしていた坂本に転機が訪れました。徴兵検査で帰郷した青木と再会したのです。東京美術学校で学んでいた青木は自分の絵を坂本に見せました。正直なところさほどうまいと思っていなかった青木の上達ぶりに坂本は驚き、後に『このときほど私の人生であせりを感じたことはなかった』と書いています。徴兵検査で不合格になった坂本は、ついに上京を決意しました。母も息子の強い意志を読み取りました。自宅を居間1室だけ残し、あとはすべて間貸しにして1人暮らしのめどをたて、涙ひとつこぼさず息子を送り出したといいます。
明治35年(1902)、坂本は青木と一緒に上京しました。共に20歳の頃です。坂本は、後になってこう書いています。
『絵の研究に上京するのは明らかに冒険で、ただ行けるところまで行ってみるばかりで、ただもう画を描くこと以外は一切の希望を自然に捨ててしまいました。母が小生1人を頼りにしているという矛盾は自分に迫っていますから、絶体絶命でありました』
坂本はひたすら絵と向き合う日々を過ごします。28歳になった時、彼は結婚をして東京に新居を持ち、母を呼び寄せました。
後年、坂本は「近代洋画の巨匠」と呼ばれるようになります。
取材、執筆 オフィスケイ代表 田中 敬子
明治40年(1907)の第1回文部省美術展覧会に入選するなど着実に力を発揮。
パリ留学を終えて久留米に戻り、
昭和 6年(1931)八女市に定住。馬、能面、月を主な主題とした作品を残し、87歳で没した。
(『よかとこ久留米ものしり事典』より抜粋編集)
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坂本繁二郎生家(久留米市指定有形文化財)
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展示室
- /主な参考文献/
- 『坂本繁二郎文集』『私の絵 私のこころ』坂本繁二郎著・『坂本繁二郎』
- 河北倫明著他
- 住所久留米市京町224-1
- TEL・FAX0942-35-8260
- 開館時間10:00~17:00(入館は16:30まで)
- 休館日月曜日/月曜日が祝日場合は開館、次の平日休館
- 入場料一般 210円(150円) ・ 小中学生 100円(50円)
- ※( )内は20名以上の団体料金
- パスポート券(発行日より1年間有効)
- 一般 1,040円・小中学生 520円
- リンク 坂本繁二郎生家
- 交通アクセス
※専用の駐車場がありませんので公共交通機関をご利用ください。
◇JR
JR博多駅よりJR久留米駅まで(新幹線約15分・快速約40分)
JR久留米駅より坂本繁二郎生家まで、徒歩約5分
◇西鉄電車
西鉄福岡(天神)駅より西鉄久留米駅まで(特急約30分)
西鉄久留米駅より西鉄バスで「JR久留米駅」下車(約10分)
JR久留米駅より坂本繁二郎生家まで、徒歩約5分 - »googleマップはこちら