平成15年(2003)、久留米市は人口一万人当りの焼きとり店数が多い街として、市民団体が「焼きとり日本一」を宣言しました。以来、毎年9月に開催される「久留米焼きとり日本一フェスタ」は2日間で4万人が来場する久留米市を代表するグルメイベントのひとつとなっています。
久留米のB級ご当地グルメの一つ「久留米焼きとり」は、屋台で出されたのが始まりでした。久留米の屋台の歴史は古く、昭和12年(1937)、ある屋台で醤油味の澄んだ豚骨スープのシナそばが出されたとの記録があります。
昭和20年(1945)、空襲を受けた久留米の都心部は焼失し、人々はいわゆるヤミ市と呼ばれた自由市場に足を運びました。久留米市史には、こう書かれています。
『戦後にわかに建築された自由市場は、当初は道端に広げたござや台の上に、商品をわずかばかり並べた露店、簡単な飲食を供する屋台の集まりとしての青空広場から出発している』
昭和30年代の屋台では、すでにダルム(主に豚の腸)や豚バラ、鶏の砂ずりなどが出されていました。鶏肉は高価で手に入らず、今ほど種類が多くなかったとされています。当時、ゴム工場などで働いていた人々が、焼きとりなどを出す屋台に開店前から並びました。日本の産業界は戦後の復興期が終わり、高度成長期に入った頃です。久留米では、いわゆる「ゴム三社」のブリヂストンタイヤ(現・株式会社ブリヂストン)や日本ゴム(現・株式会社アサヒコーポレーション)、月星ゴム(現・株式会社ムーンスター)が技術革新によって業績を伸ばし、工場では多くの人が働いていました。人々は安くておいしく、お腹にたまる栄養価の高い食べ物を求めていたのです。
久留米の焼きとりについて、次のような逸話があります。
『久留米には、昭和の初期に創立された九州医学専門学校(現・久留米大学)があったので、医学生や医者の多い街でした。あるとき、医学生たちが焼きとりを出す屋台に来てこう言いました。
「大将、ダルムを6本、焼いて」
「ダルム?何ですか?」
医学生たちはにやりとしました。
「腸のことです。ドイツ語で」
「ああ、腸の串焼きですね?」
当時、医者はドイツ語でカルテを記述していました。医学生はドイツ語が必須でした。
「腸がダルムなら、心臓の串焼きは?」
「ヘルツですよ。大将、ヘルツも6本焼いて!」
こうして、いつの頃からか、焼きとりにドイツ語の名前が登場したのです。』
現在、久留米焼きとりは、ネタの種類が、鶏、牛、豚、馬、魚介類、野菜など数多く、とりわけ内臓ものの串や創作巻物の串が豊富です。久留米には、昔から肉屋、内臓屋といった専門業者がいましたので、豚、牛、馬の材料を手に入れやすかったといわれています。焼きとり店の店主たちは、お客の喜ぶ味を追求して一品一品増やしていきました。
「安くておいしい焼きとりを食べてほしい」
後に、焼きとりファンが自ら屋台や店舗を構え、今では、久留米で焼きとりを出す店はおよそ200軒あるといわれています。
主な参考文献=「久留米市史」・「久留米商工史」他
取材、執筆 オフィスケイ代表 田中 敬子
「焼きとり店密集地・久留米」をPRしようと「串(クシ)の日」にちなんで、毎年9月4日に近い土・日曜日に開催されている「久留米焼きとり日本一フェスタ」。平成15年に、第1回目となる「久留米焼きとり日本一フェスタ」が開催されて以来、毎年実施されている、久留米市の名物イベントの一つで、地産地消をふまえ、各店の持ち味を活かした焼きとりが披露されます。
- 【リンク】久留米焼きとり日本一フェスタ