耳納連山の最西端、高良山にある高良大社から森林つつじ公園を過ぎたところに、兜山(けしけし山)があります。標高約300メートルのその山は、格好が兜や芥子坊主に似ているところから、兜山、または、けしけし山と呼ばれてきました。毎年3月、けしけし山の山頂で夭折の天才画家、青木繁をしのび「けしけし祭」が開かれています。人々は歌碑の前に集い、カッポ酒を注いで、28歳でこの世を去った彼の霊を慰めます。
明治44年(1911)3月25日、青木は病死しました。亡くなる前に、病院から姉妹にあててこう書いています。
『葬式代ぐらいは枕の下にいれておくから、それで焼き、自分の残った骨灰は、高良山の奥にあるけしけし山の松の根に埋めてください。自分はこの山の頂上から思い出がたくさんある筑紫平野をながめて、この世の恨み、うっぷん、呪いを捨て去り、永遠の眠りにつきたい』
遺骨の一部は、家族が松の根に埋めたと伝わります。一方、青木の幼なじみであった画家、坂本繁二郎を始めとする友人たちは、彼の遺志を継いで山頂に記念の碑を建てたいと考えていました。しかし、それから度々話は持ち上がったものの立ち消えとなりました。
終戦後の昭和22年(1947)になって、坂本と1人の画商が歌碑建立への第一歩を踏み出しました。現在、青木の作品『自画像』がそのきっかけだったと伝わります。
関西のある蒐集家は戦後に多くの作品を手放しましたが、青木が美術学校在学中に描いた『自画像』は手元に置いていました。ところが、箱に入れてもどこに置いても絵のあたりから毎晩悲しげな声が聞こえてくるというのです。そこで、蒐集家は「ふるさとに帰りたいのではないだろうか」と思い、画商に絵を持ち込んだのでした。画商は『自画像』をふるさとに戻すことを約束し、これを機に慰霊の碑を建てたいという気持ちに駆られて、坂本に相談しました。坂本は、念願だった青木の歌碑建立を決意します。
そうは言っても、当時、けしけし山の頂上へ行くには猟師が歩くような山道をたどるしかありませんでした。坂本は八女の住まいから何度も通い、山中を歩き回りました。碑石の選定や建てる場所、その向きなどにこだわったのです。当時の坂本は65歳くらいです。
後に、彼はこう書いています。
『青木君もそうだったでしょうが、私にとっても子供時代に登りなれたなつかしい山々で、裏道横道いろいろの見晴らしも知っておりました』
碑石はけしけし山の自然石が選ばれました。その石を山頂に運ぶ作業は地元の山本町の青年有志などが協力しましたが、困難をきわめたといいます。運搬中に馬が暴れだして石を谷底に落したこともあって、4度目で成功しました。碑面には、青木が詠んだ和歌の一首が彫りこまれました。坂本が選び、自ら墨で書いたひらがなが使われています。
『わが國は筑紫の國や白日別 母います國櫨多き國』
翌年の春、遺児の福田蘭童や友人らが見守る中、歌碑の除幕式が行われました。青木の死からおよそ37年後のことでした。
取材、執筆 オフィスケイ代表 田中 敬子
例年3月下旬の日曜日を選んで行われる「けしけし祭り」(主催:久留米連合文化会)は、日吉町順光寺と高良山奥のけしけし山をバスで結んでの祭りである。昭和28年(1953)より遺族を招いてカッポ酒を注ぐ碑前祭となった。
(『よかとこ久留米ものしり事典』より抜粋編集)
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『わが國は筑紫の國や白日別母います國櫨多き國』
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かっぽ酒を注ぐ碑前祭
- /主な参考文献/
- 『坂本繁二郎文集』『私の絵 私のこころ』坂本繁二郎著・『青木繁と坂本繁二郎「能面」は語る』 竹藤寛著 他
- 住所久留米市日吉町139(順光寺)
- 久留米市山本町豊田(兜山)
- ※注:けしけし山は、現在閉鎖中の旧兜山キャンプ場内に
あるため通常は立ち入りできません。 - リンク けしけし祭り
- 交通アクセス
・西鉄久留米駅からタクシーで30分
・西鉄久留米駅から西鉄バス草野経由田主丸行、
「柳板」下車、徒歩約40分
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