山川町の追分に、明治の文豪、夏目漱石の句碑があります。
『親方と呼びかけられし毛布哉』
これは、明治32年(1899)の1月、漱石が大分県の耶馬溪旅行の帰りに久留米を通り、その際に詠んだ俳句です。これには次のような前書きがあります。
『追分とかいう処にて車夫共の親方乗って行かん喃(のう)というがあまり可笑しかりければ』
漱石は、追分で人力車の車夫に「親方、乗っていかんのう」と言われ、それが可笑しかったので一句詠んだと言うのです。なぜ、漱石はこの出来事を可笑しがり、わざわざ俳句を作ったのでしょうか。
明治29年(1896)の春から4年余り、漱石は第五高等学校(現・熊本大学)の英語の教師として熊本で暮らしました。第五高の就職を紹介したのが久留米市出身のドイツ語学者菅虎雄で、漱石が兄と慕った親友でした。菅との縁で漱石は5度久留米を訪れたとされ、このときは5度目にあたります。
漱石は元日の朝、熊本の家を出て耶馬溪旅行に出かけました。道連れは第五高の同僚です。汽車に乗って「博多」、「小倉」を経て「宇佐」へ行き、徒歩で「宇佐八幡」に詣で、「耶馬渓」を回りました。それから吹雪の中、峠を越えて「豊後日田」に入り、「日田」から「吉井」までは舟で筑後川を下っています。当時、吉井から久留米に入るには2つの道がありました。善道寺町を経由する中道と耳納山麓沿いに草野町を通る山辺道です。どちらを歩いたのかは不明ですが、1月7日、漱石は「追分」にやって来ました。
当時、追分は街道の「分岐点」で、人力車の車夫が客待ちをする立て場がありました。九州の田舎では、雪の降る日に赤や青の毛布を頭から被って歩いていたことから、漱石も防寒用の毛布をまとっていたのでしょう。そこに、車夫から「親方、乗っていかんのう」と筑後弁で呼びかけられたのでした。車夫が旅人を「親方」と呼ぶのは珍しいことではありません。ですが、漱石は第五高の教授で、日頃「先生」と呼ばれています。自分が見損われ、しかも筑後弁。これは滑稽だ、と思って句を詠んだのです。
この出来事は、後に名作『坊っちゃん』の中で、鎌倉での逸話として活かされました。宿の亭主に風流な人だと言われた場面で、坊っちゃんはこう思います。
『2年前、ある人の使に帝国ホテルへ行った時は錠前直しと間違えられた事がある。ケットを被って、鎌倉の大仏を見物した時は車屋から親方と云われた。その外今日まで見損われた事は随分あるが、まだおれをつかまえて大分御風流でいらっしゃると云ったものはない。大抵はなりや様子でも分る』
こうして漱石が詠んだ句は7日間の旅行で75句に上りました。九州の山河を踏み締めて歩きながら、目や耳にした出来事を丹念に書き留めたのです。漱石は教鞭を執るかたわら俳壇に名声が上がり、エッセイや評論を書いていました。この頃、32歳。追分の地に立ったとき、俳人から小説家となる人生の分岐点に差し掛かろうとしていました。それから5年ほどして、漱石は初めての小説『我輩は猫である』を執筆します。
写真(久留米市山川町)
主な参考資料=『夏目漱石と菅虎雄』『夏目漱石の小説と俳句』他
取材、執筆 オフィスケイ代表 田中 敬子
句碑がある公園から西2軒目の角の家が、かつての立て場でした。
久留米市山川町361-2
・JR久大本線「御井」駅より、徒歩約5分
・西鉄バス(20・25)番利用、「追分」下車、徒歩約3分