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久留米物語

久留米物語 真木和泉守保臣と
全国総本宮水天宮 水天宮の第22代宮司、全国における維新運動の先頭を切る。朝廷、薩長両藩の同志とともに倒幕するのだ。全ては後世の歴史の批判に任せよう。

 8月、筑後川河畔では西日本一の規模とされる「筑後川花火大会」が催され、多くの観客で賑わいます。その始まりは江戸時代、久留米藩の二代藩主有馬忠頼公が水天宮の社地社殿を寄進した際、落成祝賀として催された「水天宮奉納花火」によります。
時は幕末。久留米の藩政を支えていたのは、尊王攘夷思想の「水戸学」という学問を学んだ人々でした。水天宮第22代宮司の真木和泉守保臣もその一人です。家が神職で朝廷から官位を授けられたこともあり、天皇に仕える者という自覚がありました。
弘化3年(1846)、保臣は藩主の有馬頼永公に藩政改革の意見書を提出しました。
「一藩の財政問題にとどまらず、天下の大改革を目指すときです。国土人民は徳川家から与えられたものではありません。各藩は天皇家へ忠節を勤めるべきです」
保臣、34歳の頃です。米国使節のペリー来航より前に、彼はいちはやく倒幕と王政の復古を前提に藩改革を構想していたのです。ところが、頼永の死を境に、藩は幕府を支持する人々が実権を握りました。保臣は処分され、水田(筑後市)での謹慎を命じられました。この後、久留米藩は維新運動で他藩に後れをとることになります。
それから、中央ではペリーの来航、安政の大獄など天下を揺り動かす大事件が続きました。保臣は、ひそかに天皇の側近の公卿、三条実万らに手紙を書きました。
「今こそ、幕府制度を廃止して、朝廷が国を治めるべきです。武家政治の旧弊を破り、日本の一新と飛躍を図る時なのです」
実万はこの手紙を熟読し、感激したといわれています。
文久2年(1862)、保臣は門下を従えて水田の「山梔窩(くちなしのや)」と名づけた家を脱出しました。50歳のときです。
それから2ヵ月の後、京都で「寺田屋騒動」が起きました。薩摩藩の尊王攘夷派と公武合体派が互いに殺傷した事件です。保臣は第一隊の総督でした。この騒動を機に、保臣は長州藩と手を組んで、日本の歴史の表舞台に登場することになります。翌年の6月、保臣は京都で桂小五郎ら長州藩の要人と会談し、倒幕運動の中心に立ちました。三条実万の子、実美を擁する倒幕派の勢いが強くなっていたのです。保臣は薩長連合の必要性をこう説きます。
「長州藩の力だけでは幕府の勢力を屈服させることはできない。朝廷、薩長両藩の同志とともに、倒幕するのだ」
後に、薩長連合は坂本龍馬らの仲介で実現しますが、保臣はそれより3年ほど早く構想したのです。ところが、会津藩と薩摩藩が示し合わせて長州藩を追放した「8月18日の政変」が起こりました。これによって公武合体派が主導権を握ったのです。
元治元年(1864)7月、ついに長州藩が形勢を挽回しようと京都に出兵し、諸藩の兵と戦いました。保臣は第一隊浪士隊を率いて戦いましたが、敗れて天王山に退き自刃しました。52歳でした。前年、保臣は久留米の友人にこう書き送っています。
『絶体絶命の境地というべきですが、却って心に余裕があります。全ては後世の歴史の批判に任せ、この度は断然上京して幕府軍と戦い討死をとげる決心です。あなたはもうしばらく我慢され国家のためつくす道をさぐってください』
後世の歴史は証明しました。保臣が考えた薩長連合という形は倒幕運動の基盤となり、日本は新しい時代を迎えたのです。

主な参考資料=『明治維新と久留米藩難―有志者たちの先駆的運動と挫折―』・ 『ふくおか人物誌5 真木保臣』・『正々堂々 真木和泉守の生涯』他

取材、執筆 オフィスケイ代表 田中 敬子

真木和泉守銅像
水天宮・紫灘旗全国高校遠的弓道大会
  • 水天宮

    【水天宮】

    全国水天宮の総本宮。創建は、建久年間(1190~99)と伝えられ、平家が壇ノ浦の戦いで破れた後、官女按察使局が筑後川の辺り鷺野ケ原に逃れ来て初めて水天宮を祀ったもので、その後、慶安3年(1650)2代藩主有馬忠頼公の時、筑後川に臨む現在地になりました。水にゆかりの社として海運守護神となり河童伝説との結びつきも伝えられ、信心を集めました。今では安産の神様として知られています。

  • 紫灘旗全国高校遠的弓道大会

    【紫灘旗全国高校遠的弓道大会】

    真木和泉守保臣は号を「紫灘」と称し、弓の名手としても名を馳せました。この号にちなんだ弓道大会が、紫灘旗全国高校遠的弓道大会で、毎年8月に久留米市で開催されています。 全国でも数少ない遠的競技の大会で、全国各ブロック大会で選抜された高校が参加する弓道版の「甲子園」です。

※タイトル横の写真は「山梔窩(さんしか=くちなしのや)」の模式家屋です。山梔窩は、真木和泉守保臣が久留米藩の藩政改革に失敗して謹慎させられ、9年9カ月を過ごした家で、筑後市大字水田に現存する建物は、福岡県指定文化財です。水天宮の境内地の銅像と真木神社の間にある建物は、資料に基づき当時のものを模して建てたものです。

【住所】
久留米市瀬下町265-1
【アクセス】
・JR鹿児島本線「久留米駅」下車、徒歩約10分
・九州自動車道「久留米IC」より約20分
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【リンク】水天宮
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