毎年4月、久留米市では、市民を始め全国や海外から参加した人々が思い思いに筑後路を歩いて楽しむ「久留米つつじマーチ」が開催されます。この生みの親は、久留米市に本社がある履物メーカーの株式会社ムーンスターです。
久留米市は日本の履物・ゴム産業発祥の地と言われています。その歴史は、明治6年(1873)、同社の創業者、倉田雲平が久留米市米屋町(現・中央町の一部)に「つちやたび店」を開いたことにさかのぼります。
23歳の時です。雲平は、一度は衣服の裁縫をする長物師(ナガモノシ)の看板を掲げたのですが、同業者の多い業界に見切りをつけていました。そんな時、雲平は足袋に注目したのです。足袋はまだ自家製がほとんどで、出回り始めた専門業者の物は粗悪品が多かったのでした。
雲平は自分の作る足袋の一足一足に精魂を傾けました。これが、雲平の身上とする「精品主義」です。「つちやたび」は評判になりました。長物師としての修行、さらに、足袋の名産地の長崎で修行をした雲平には優れた技術があったのです。
さて、明治28年(1895)の頃です。すでに「つちやたび店」は各地に特約店もできて、九州でトップクラスになっていました。ですが、雲平には「足袋を天職」とした時から、大志がありました。それは優れた足袋の量産です。雲平は足袋の需要と供給について調査を命じました。すると、九州の年間需要量は百万足を超えていたにもかかわらず、その市場は九州以外からの移入足袋で占められていたことが分かりました。
「百万足の需要があるのならば、何としても私たちの商品で九州の市場を満たしたい。精品主義の『つちやたび』をもってすれば、できるはずだ」
そこで、新工場が建設され、販路の拡大先としてまず長崎市が選ばれました。雲平には「商略」があったのです。長崎は上等な足袋を好む気風がありました。「つちやたび」は長崎の足袋に比べて耐久性があったので、長崎の人々の好みにあっていると考えたのです。一足当たりの単価を安くした上に、「にかぎり升」という奇抜な広告で売り込みを図ったことが功を奏して、その年の同地での販売高は一万足にも上りました。それは電柱広告に「にかぎり升」の文字を書き、人々が不思議な広告だと興味をもち、市民のあいだで話題になった頃、上部に「つちやたび」といっせいに書いたことで、人々ははじめてその広告の意味を知りました。新聞紙上で、全国無類と賞賛されるほど大きな宣伝効果をあげました。
次の目標は九州各地です。社員たちは「行商」を始めました。社員が足袋と宣伝用の鉄製の看板を積んだ箱車を引いて各地を回り、商品を売り込む訪問販売です。
ある夏の日、雲平は寺で酒を勧められましたが、こう言って盃を伏せました。
『今、私の息子たちは行商に出ています。この暑さの中でさぞ苦労しているでしょう。荷物には鉄の看板も積んで、それをこつこつ釘で打ちつけている音が聞こえてくるようです。とても酒など飲んでいられません』
こうした社員の「根性」によって、一歩一歩販路は開拓されました。この歩みこそ、久留米商人の原点。その「商略」と「根性」が足袋工業の発展をもたらし、久留米市を日本の履物・ゴム産業発祥の地として知らしめていったのです。
写真=(つきほし歴史館)
主な参考資料=『月星90年史』・『久留米商工史』他
※左の画像は本文の記述を再現したもので、当時のものとは異なります。
※文章中の画像は「つちやたび」創業当時の看板で「御誂向、御好次第
(オアツラエムキ オコノミシダイ)」と書かれています。
取材、執筆 オフィスケイ代表 田中 敬子
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【つきほし歴史館】
つきほし歴史館では、「つちやたび」からスタートし、日本を代表するシューズメーカーとなった「ムーンスター」の数々の過去の製品、ポスター、写真はもとより、足袋づくりの道具や世界の靴、彫刻家で詩人の高村光太郎氏が制作した初代・倉田雲平社長の胸像など、株式会社ムーンスター140年の歴史を紹介する貴重な所蔵品が展示されています。
なお、歴史館の建物は、大正15年(1926)建築の歴史ある建物で、迎賓館として使われていました。- 【開館時間】
- 10:00~17:00(12:00~12:45は昼休みのため閉館)
- 【休館日】
- 12月30日~1月3日(年末年始)
8月13日~15日(盆) - 【料金】
- 入館無料
- 【住所
- 久留米市白山町60 株式会社ムーンスター本社敷地内
- 【アクセス】
- ・JR鹿児島本線「久留米」駅より徒歩約10分、
または西鉄バス「荘島」バス停より徒歩約5分 - »googleマップはこちら
- 【リンク】つきほし歴史館